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Author:ミナガちゃん
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羽田空港を出て、一路帯広へ。4年ぶりかな。
夕暮れ時、橙色の残光が窓の外にある。燃える火の色の帯が続く。地球の営みは、ときに形容しがたい美しさを見せる。
15年くらい前、パキスタンを訪ねた時、「スーフィー」を説明するのにパキスタン人の考古学者が、夕暮れの残光の神秘さを例えにして熱心に説明してくれた。パキスタンに滞在する田島さん夫妻を訪ねての旅だった。考古学者は長いドレスをまとった立ち居振る舞いの優雅な人だった。日本人の男性にはあまり見られないああいう優雅さはどこからくるのだろう。スーフィーの信仰者だったのだろうか。「スーフィーは創造的表現を通して、あらゆる形態の中に隠された状態で存在する神的秩序を想起し、かつ喚起する」とインタネットの説明にある。これって、あらゆるところに神さまがいると考える日本と似ている。
語源は、羊毛の服を身に着けたのでスフ(羊毛)だったり、清浄(サフアー)だったり、ムハンマッドの後ろで一列に並んで祈った人たちにちなんで一列(サッフ)だったり、といろいろな説があるらしい。
そしてその考古学者が、タキシラの遺跡を案内してくれた。あの旅には、画家の津田櫓冬さんが一緒だった。
アレキサンダー大王は遠征でインダス川をこえたが疲弊した部下たちの反乱に遇い、これ以上の東侵をはばまれた。アレキサンダーはインドに行くつもりだった。紀元前300年ごろの話。インダス川をこえて西側にタキシラの遺跡があって、その美術館が印象深い。アルカイックスマイルの仏像があったように思う。一部欠けていた。まーるく穏やかで何千年も経た時の流れを感じさせる微笑だった。アレキサンダーは引き返す途中で亡くなるんだったな~。…夕焼けは、人を昔に引き戻す。
迎えの正子さんの姿がない。正子さんとは高校の同級生で、卒業してから「あなたそういう人だったの?」という発見があった。
「石橋をたたいてたたいて渡らない。でもとんでもないときに勝手に飛び出し、わが道を行く」と本人が言う。その人が大阪から北海道に来て、20数年が過ぎたらしい。
事故?それとも日にち間違えた。留守番電話が入っている。
しかし1か月前に買ったスマホの留守番電話の再生の方法がわからない。自宅に電話、連れ合いの忠さんが、「車がパンクして、30分ぐらいかかるらしい」。交通事故ではなくてよかった。
 事故といえば、20年近く前、正子さんの運転で走っていた。おしゃべりしながらドライブを楽しんでいた。ところが車がつるつるつると隣の車線に入り180度回転して止まった。
 対向車はなかった。これが冬の事故の初体験だった。そのご私自身も免許を取り、東京―佐久―上田を頻繁に往復するようになり、内山峠でスリップ事故を2度体験し、3度目は谷底か、と車での東京往復はやめた。
 帯広空港、外気温の表示は、15、7度C。星がきれいだ。
 午後7時半すぎ、正子さん到着、ピックアップされた。
「お風呂入ってく?」「いいね」
おふろセットが用意されていて、「はいこれあなたの」。嬉し~い!
ふれあい会館で、一風呂浴びる。ここは、市営で集会室や調理室もある。ロビーにもソファーが何セットもある。ひろーいお風呂、「ごくらく、ごくらく」。
 荒井農場まで15分。一面の雪景色。星がいっそうきれい。風呂上がりのオリオンビールがうまい。おでんによく味がしみている。大根にジャガイモ、にんじん。この農場で採れたものだ。シシャモ、実が詰まっている。ああ、至福。
「あなた、昔はまずビール。その次日本酒だったね~」
「そうなの、でも最近日本酒が弱くなって」
やっぱり、わたしたちだんだんおばさんになってるね。」
「おばさんなんか通り過ぎて、おばあさんだよ」
元気で、贅沢で、うるさいおばあさんたち。
 
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『少女たちへのプロパガンダ』〈教科書に書かれなかった戦争Part59)
定価1500円+税 ISBN978-4-8166-1201-5

少女たちへのプロパガンダ
                      


長谷川潮さんとの仕事は、これで5冊目になる。先日最終校正チェックのために梨の木舎にみえた。この何年か体調がすぐれなかった様子だが、この日は顔色もよくとてもお元気だった。
むだなおしゃべりはされない。必要なことだけを話し、仕事が終わると「では、さようなら」とばかりに帰っていかれる。
こちらはちょっと緊張するが、長谷川さんの顔は笑っているから怒ってはいない様子。『少女たちへのプロパガンダ』というタイトルはいいのではないか、と賛成してもらったし。
『少女倶楽部』を、よくぞとりあげてくださった。いままで少年たちを戦争に向かわせたプロパガンダについてはたくさんとりあげられてきた。山中峰太郎の『敵中横断300里』など、血湧き肉踊る物語は少年たちを虜にした。――たぶん読んだ少女たちも虜になっただろう、「わたしにだってなにかお国のためにできることがあるのではないか」と考えたのではないか。少年たちが陸軍や海軍に志願したのは悲壮な決意ではなく、冒険物語の延長だったのかもしれない。子どもたちの心を操る戦争動員は国家のお仕事だったわけだ。
肉弾三勇士は、たしか靖国神社の鳥居の台座にレリーフがあるけれど、この物語が『少女倶楽部』でも取り上げられている。
1932年5月号鈴木氏亨作 伊藤幾久造画「あヽ肉弾三勇士」            
       
である。
「敵弾を浴びながら、三兵士は鉄条網の直前まで、1人も倒れずに走っていきました。あヽ何という天佑でせう!」
3人は自分の身を犠牲にして突破口を開く。事実とはちがっていたそうだが、あらゆるメディアをつかって喧伝されたわけだ。このあとの描写は、見るに耐えない、書くに耐えない。(本書28頁)子供向けの読み物とは思えない即物的描写がつづき、これに対し長谷川さんは強く疑問を呈す。
彼らは、特攻隊のはしりだった。それをメディアはこぞってとりあげ、いってみれば華々しい死へと子どもたちをあおった。  ここまできて、私は3月11日の防災無線で避難を呼びかけ続け逃げ遅れた若い女性の犠牲を思わずにはいられない。埼玉県が道徳の教材にとりあげると東京新聞に載っていた。
彼女の犠牲を公が美化するのってすご~く違和感がある。1人でも救いたいという思いがそうさせたのであって、顕彰を彼女は望むだろうか。それに、彼女にぎりぎりまで仕事をさせた行政の判断は問われるのではないかな。
ところで1936年新年号の売り上げは『少年倶楽部』は75万部、『少女倶楽部は』48万部だったという。   
      
               
                      
2012/02/15 20:04 平和を考える TB(0) CM(0)
 昨日11日、佐久市の教育会館に、武藤類子さんの話しを聞きに行った。
 類子さんとは、12月24日に知り合ったけど、その前に私は知っていた。9月19日の5万人集会でスピーチをきいたのだから。
 YUチューブにアップされたスピーチにあらためて心をうばわれ、ノートに書きとめた。
 書きとめた後ひょっとしてと、ハイロアクションのホーム頁をみたら、スピーチが全文載っていた。記憶にとどめたい、そのくらい衝撃的なスピーチだった。

 「私たちはいま、静かに怒りを燃やす東北の鬼です。」
  この言葉に、こころが凍った。
 「…真実は隠されるのだ。国は国民を守らないのだ。…私たちは、棄てられたのだ。」
 5万人が見守る中、類子さんによって解放されたことばは、静かにためらいなく、
飛び立った。1週間後にはいくつかの言語に翻訳されたという。

 このスピーチが1冊の本になった。
 『福島からあなたへ』大月書店1200円+税。言葉が力をもって切々と迫ってくる。反響をよび1カ月もたたないのに増刷になったと担当編集者の岩下結さんのはなしである。
 皆さんに進めたい。怒りで胸が熱くなり、その熱が1歩踏み出す力にかわる。
「私たちは…東北の鬼です。」――
 東北の鬼たちが立ち上がった。平原にたちのぼる狼煙のように、一筋の白い線が見える。それに呼応するたくさんの火の手が見える気がする。

 出かける前、眠っているゆり子さんの耳元で、「行ってくるよ。ご飯食べてね」
といったんだけど、ご飯食べてくれたかな。8時44分の新幹線で帰るから、待っててね、お母さん。そうだお母さん、類子さんはナンバ踊りをするんだよ。今度覚えてきて踊ってみせるよ。
 母は、1週間ほど前からごはんを食べなくなった。もう少し食べて。春になって、花が咲くでしょ、みんなでお花見しようよ。
2012/02/15 11:52 平和を考える TB(0) CM(0)
 昨日11日、佐久市の教育会館に、武藤類子さんの話しを聞きに行った。
 類子さんとは、12月24日に知り合ったけど、その前に私は知っていた。9月19日の5万人集会でスピーチをきいたのだから。
 YUチューブにアップされたスピーチにあらためて心をうばわれ、ノートに書きとめた。
 書きとめた後ひょっとしてと、ハイロアクションのホーム頁をみたら、スピーチが全文載っていた。記憶にとどめたい、そのくらい衝撃的なスピーチだった。

 「私たちはいま、静かに怒りを燃やす東北の鬼です。」
  この言葉に、こころが凍った。
 「…真実は隠されるのだ。国は国民を守らないのだ。…私たちは、棄てられたのだ。」
 5万人が見守る中、類子さんによって解放されたことばは、静かにためらいなく、
飛び立った。1週間後にはいくつかの言語に翻訳されたという。

 このスピーチが1冊の本になった。
 『福島からあなたへ』大月書店1200円+税。言葉が力をもって切々と迫ってくる。反響をよび1カ月もたたないのに増刷になったと担当編集者の岩下結さんのはなしである。
 皆さんに進めたい。怒りで胸が熱くなり、その熱が1歩踏み出す力にかわる。
「私たちは…東北の鬼です。」――
 東北の鬼たちが立ち上がった。平原にたちのぼる狼煙のように、一筋の白い線が見える。それに呼応するたくさんの火の手が見える気がする。

 出かける前、眠っているゆり子さんの耳元で、「行ってくるよ。ご飯食べてね」
といったんだけど、ご飯食べてくれたかな。8時44分の新幹線で帰るから、待っててね、お母さん。そうだお母さん、類子さんはナンバ踊りをするんだよ。今度覚えてきて踊ってみせるよ。
 母は、1週間ほど前からごはんを食べなくなった。もう少し食べて。春になって、花が咲くでしょ、みんなでお花見しようよ。
2012/02/12 17:22 暮らしのなかで TB(0) CM(0)

母ゆり子さんがいる上田市真田の特養にもどってきた。

2月8日朝の報告が遅くなってしまった。
 亀戸でJRを降りて、5の橋に着いたときもうすでに強制排除は始まっていた。
 5の橋の欄干には金網が張られ工事用の白いシートがはられ河川敷の作業者の姿を隠している。昨夜は入れた河川敷公園におりる階段入り口は金網のゲートがつくられ、作業服に、ヘルメットの男たちがものものしく見張番をしている。

「入りたいんですけれど」
「入れません」
「友だちがいるんですけれど」
「入れません」
「なぜ?」
「強制退去です」
「なんで?」
「責任者に伝えてあります…」

この様子をわたしの正面左からビデオカメラを回している男がいる。
公安らしい。勝手に撮るな。
質問する私に、左側にいるおじさんがもぐもぐしゃべりはじめる。
「税金を払ってないんだから、当然だろう。税金払ってから文句言えよ」
すべて国民は健康で幸せに暮らす権利があるんだよ。政府はそれを保証するのが仕 事なんだよ。学校で習わなかった?
昨日会ったYさんが強制退去に抗議してマイクでしゃべり続ける。どこで話しているかわからないが、つまりこういうことだ。

 昨年末から江東区は河川敷に暮らす15軒のテント小屋に退去命令をだした。
1軒を除き退去に応じて場所を移した。残った1軒は体調が悪く引っ越しの準備をしているもののまだ移っていない。いま強制退去が実施されている。病気の60代の高齢者に100人以上(200人くらい?)がよってたかって荷物を運び出している。

 この行政執行の責任者は、荒木課長、担当課は「水辺と緑の課」だという。笑える。反対側の橋の袂から下の作業員の作業の様子が見える。100人以上の作業員とガードマンと警察、それに第4機動隊が動員されている。無抵抗の市民に対して警察や機動隊まで動員するとはあきれる。こんなところに税金を使うのは許されない。
この近辺には有料のカヌーカヤック練習場がつくられ私企業に運営が委託されているという。そもそも、何のための野宿者排除なのか。
 5月に迫ってきた話題のスカイツリーオープンを控えて、再開発に伴う「環境浄化」と野宿者排除だと説明されて納得した。オリンピック開催地では、ソウルでも北京でも、「環境整備」のため貧しい人たちの住居が強制的に撤去された。

 10時近くなって、道路をわたった反対側の橋のたもとにYさんたちが走って行く。1軒残ったテントは排除されたようで持ち主の男性が毛布にくるまって寝かされている。その周りを作業員が取り巻き、傍らに医者と看護士もいる。毛布にくるまれた男性の所にいくためにYさんはゲートを走り抜けた。ガードマンが後を追いかける。
「暴力やめろ!」小競り合いにこちら側から声が飛ぶ。
 やがて、救急車が呼ばれた。担架が運ばれてきた。救急隊員が毛布にくるまった男性と話している。彼は載ろうとはしない。
「無理に載せるなよ」。救急車が到着してから3、40分後、男性は担架で救急車内に運ばれた。
橋のたもと、私のまわりには、公安らしい男たちがうようよ。

 チラシをまいた。
「あんたたちはどっち?」と話しかけてきた70代の通りがかりの人がいた。
「強制退去に反対のほう?排除するほう?」
「反対のほう」
「そうだ、ほんとにおかしいよ、こんなこと」
まともな人がいることにすこし元気が出る。こんな一言でわたしも勇気がでる。
 11時半、チラシ配りを続ける野宿のおじさんたちに、
「わたし仕事にもどるから、またくるね」
「ごくろうさん。ありがとう。またきてください」 
 ちょうど帰り際、
「ご飯炊いたから、とにかくおにぎりつくってもってきた」
近くに住んでる人だろうか、あたたかいおにぎりの差し入れだった。
    

2012/02/12 15:07 平和を考える TB(0) CM(0)
 2月8日 朝
  竪川河川敷公園にこれから行って来ます。
 河川敷公園に暮らす人たちを追い立てようという行政代執行の手続きがとられていて、
 今日明日にも行政がはいるかもしれないという。これってどういうこと?
  強制的に排除するって、行政が? いったい何があるの? 
  もどってきてから報告します。 
2012/02/08 08:12 平和を考える TB(0) CM(0)


 2011年3月11日――東北大震災、気仙沼のおばあちゃんたち
東京から上田への転居(住まいだけ。梨の木舎は相変わらず神保町にある)を決めたのは、震災の衝撃のせいだった。奥の在庫棚から2000冊が崩れた。棚はひしゃげた。3カ月間、片付けられなかった。東北の津波の映像は繰り返しテレビから流され、脳裏に焼き付いて離れない。このままこの生活は続けられない。何かを変えないと苦しい。
 2011年3月11日東北大震災、つづいて福島原発が崩壊した。世界は一変した。もう元の暮らしにはもどれない。広島型原発150個分の放射能が放出されたと読んだ記憶がある。日本列島は放射能汚染列島になった。現実に起きたこととは思えない。『風の谷のナウシカ』は世界が核戦争で滅びた後の世界を描いていると知人は言う。『ゴジラ』も『ウルトラマン』も巨大になった怪獣が登場する。

 当時枝野官房長官は、「さしあたっての危険はありません」と言い続けた。広島原爆150個分の放射能がもれだしていても。「快適な日常」が延々と続くと思いたい人たちが政治を握っている。彼らにとって「快適」とはなんだろう。「お金」「政治権力」だろうか。しかしもう世界は快適ではない。世界は、あの日から放射能時代に入った。
 2011年1月息子直人が、ゆきちゃんと暮らすために家を出て行ったあと、13万7000円の賃貸マンションに居続けようかどうしようか迷った。マンションは善福寺公園の森の続き、豊かな自然のなかにあった。
JR西荻窪駅でおり北口に出る。線路と平行にある商店街を東京女子大方向に歩く。新刊本屋に古本屋、タイラーメン屋、いっぱい飲み屋、ケーキ屋、イタリア料理店が軒を連ねる。女子大通りに出ると、骨董品の店が並ぶ、オーダー靴屋もある。染物屋、蕎麦屋を通り過ぎる。脇にはいると、桜の木の周りに寄り添って人々が暮らしているような一角があり、先の急坂を降りると善福寺公園の南の池の端に出る。ここから北に向かって水辺と森が広がる。桜に銀杏にケヤキにメタセコイアにつつじ。季節には、紫と黄色の花菖蒲が水辺を彩る。七面鳥と鶏を親に持つバリケン鳥もここを住処にする。春には、カルガモのひなが親に導かれて餌を啄んでいる。冬、おなが鴨やキンクロハジロが飛来し、春が来る前には飛び立ってゆく。カイツブリとバンが残され、やれやれと広くなった池を泳ぎ回る。

 引っ越しは7月23日に決めた。
その1週間前、気仙沼に出かけた。画家アキノイサムの友だちの門ちゃんがいる。普段は半蔵レストハウスを経営し、週末はライブハウスになる。いまはボランティアセンターになっているという。一関で新幹線を乗り換え、気仙沼で降りて、宮城交通バスに乗り、巨釜半蔵(おおがまはんぞう)入り口で降りる。東京から7時間半。1泊だから大したことはできない。しかし行くことが必要だった。気仙沼市唐桑町小谷根。海面から30メートルの断崖のうえに立つライブハウスは、津波からまぬがれた。敷地内に、過去の津波の記録碑が建ち、柳田國男の一文が刻まれている。

 海沿いの漁村は被害にあった。仮設住宅のおばあさんたちは、夫をさらわれた人もいる、中学生の孫が帰ってこないという人もいる。すべての日常が流されたのは共通していた。
「たしか、靴下があったはずだなーと探そうとするんだ。それで、ああそうだ流されたんだって」
「そうだ、しょっちゅうだ」
 仮設の空き地に急ごしらえで売店が開店していた。支援物資が並び、必要な人は持っていく。気持ちばかりの小銭を入れる箱がある。店番はボランティアがかわるがわる担当する。ボランティアの中には、被災した人もいる。お店の一角のベンチに座ってお茶を飲みながらおばあちゃんたちはおしゃべりする。内容はよくわからない。これが生ではじめてきいた気仙語。耳に心地いい。一人一人の話を聞きたかった。母と同じ年ぐらいのおばあちゃんたちは、お店が開くと集まってきて、おしゃべりにひと時を過ごす。
先日門ちゃんに電話した。あの売店は閉鎖したという。おばあちゃんたちはどこに集まってお茶を飲んでいるんだろう。

 唐桑から帰る日、ボランティアセンターの英子さんが駅まで送ってくれるという。センターの庭で待つ間に救急車がサイレンをならしてくる。
「何があったの?」
「漂流遺体らしいものが流れ着いたらしい。ここに来るべくして来たんだな」近くで作業していた人がつぶやいた。いまでも時々帰ってくる人があるという。沖まで流されて、4カ月の漂流ののちに戻ってきた。ここが自分の町だったのかわからない、でも海岸はつながっているのだから。

7月23日――ユリ子さんの体験
友だちに紹介されたご近所の長田運送は、いまどき珍しいほろ付きの2トン車を使っている。左右の幅より屋根までの高さがある。ぎっしり詰め込んだ荷物の重みで、タイヤがおしつぶされている。碓氷峠はきつい、70キロで走るという。70代のおやじさんと50代後半の社員のコンビは、それでも、3時間半で上田の転居先、母の家に到着した。 
 荷物を運びこんで一息ついて、母のいる「大畑サテライト」に電話しようとケータイをみたところ何通もの着信歴がある。
 「ユリ子さん、からだがゆるんでるんです。救急車を呼んでもいいでしょうか」
「はい、お願いします。すぐに行きます」
 ユリ子さんは、救急隊員が2つめにあたった丸子中央病院が受け入れた。脳のCTスキャンと胸のレントゲンを撮った。突発的一時的脳梗塞という(ような)診断だった。救急車のなかで手当てを受けている間に血栓はとれたらしい。
 「今日帰ってもいいですが、1日泊まりますか」救急医は言った。
 翌日病院の内科部長が診察した。「検査しますので、1週間入院してください」
 「(ええ?)昨日は、今日退院してもいいと言われました」「MRIとか、いろいろ検査するので1週間はかかります。いいですね」
 丸々太った部長の顔には、反論するなんてとんでもないやつだ、という不快感がありありと見て取れた。「…は…い…」不審を残したままの返事を確認して、部屋を出て行った。 
 同席した看護師長の北村里子さんの、「残された時間を大切にしてください」で、我に返った。「そうだ、ユリ子さんには時間がない」
 聞けばMRIはガンガン音がする真っ暗闇のドームのなかでの検査らしい。そんなところに20分もいたら、助かる命も助からない。診断はついている。検査は望まない…。
1週間もここにいたら、ユリ子さんは死んでしまう。ナースステーションに走った。さっき同席していた北村里子さんがいた。
「お話があるんですが」
北村看護師長は、休憩室に座って話を聞いてくれた。
「ユリ子さんは、大畑サテライトに4年いました。もうあまり時間がないかもしれない。だとしたら、最後を迎えるとしたら、4年間寝起きしたユリ子さんの部屋で迎えたいんです。サテライトの方たちとも最後は母の部屋で、前からそういう話しをしています」
「わかりました。ご家族の意思は、医者とけんかしてでも押し通していいんですよ。医者の言うとおりにしなければいけないという、いまはそういう時代ではありません。わたしから主治医にはなします」
翌日の退院が決まった。サテライトから迎えに来てくれるという手配もとられた。
7月25日月曜日、サテライトの職員さんに付き添われストレッチャーでユリ子さんは自分の部屋に戻った。
すぐにかかりつけの真田クリニックの沢井院長が往診してくれた。
「ユリ子さん、こんにちは。大丈夫、大丈夫、元気ですね」
母の顔をみて大きな声で話す。よかった。
「1週間は大丈夫です」(1週間だけ?)
「元気なうちに会いたい人に会わせてあげてね、いい顔見せてください。
 ユリ子さんはいま、あっちの世界とこっちの世界を行ったり来たりしてます。
 この話も全部きいてますよ。みんなで、ベッドのまわりで、昔のこと話したり賑やかにしてあげてください」
 沢井先生の声を聴きながら、わたしの心が、ドラマチックに変化した。
 ―そうだ、人は死ぬんだ、と素直に思った。死ぬことを受け入れないと、ユリ子さんは安らかに向こうの世界にいけない。わたしも苦しい。直人もゆきちゃんも苦しい。気仙沼の非業の死を迎えた人たちのことをおもった。東北震災犠牲者の遺族はどんなにつらいことだろうと思った。
翌日、兄の丈夫さんとお葬式の話をベッドサイドでした。実はこの人と話すのは苦しい。しかし家族葬にしたいといったら、丈夫さんは、「自分たちの葬式もそうしたいと思っている」という。家族で、気持ちよく送りたい。孫やひ孫に囲まれて旅立ってほしい。
ユリ子さんは、その後安心したのか、奇跡的に回復した。
昨日(倒れて3カ月後)は、本当のユリ子さんの家に戻った。東京から帰ってきた直人と臨月のゆきちゃんと並んで、にこにこと庭を眺める。お仏壇の長女美奈子の写真に涙をうかべた。孫のみいちゃんとひ孫のりっくんも到着して、乾杯。

10月1日――『天の火』、原発を止めるためにあらゆる力を
『天の火』(梨の木舎刊 46判上製 定価1400円+税)は、会議通訳(同時通訳)者の高倉やえさんのはじめての小説である。湾岸戦争のNHKの同時通訳は彼女が担当したという。さまざまな情報に接する立場にいて、原発の企業提携交渉のかずかずにも立ちあっている。異文化同士がふれあう場で仕事をしながらナショナルなものを背負いつつ、しかしつまるところ人間の関係は一人一人の人間の営みが作り上げるのよと言っているのだ。
タイトルは、『神の火』としていたが、うかつにも高村薫に同名の小説があることを知らなかった。同じように原発を扱っている。カバー校正の時点で火木に出勤してくれる松代さんが指摘してくれた。タイトルは『天の火』にした。
原発この手に負えない存在。人間の小さな知恵や日々の工夫などというものは踏み潰して進む。すべてが大量に動く。エネルギー、お金。
原発事故が起きた時、戦争はこうやって推進されたのだと胸におちた。
「さしあたっての危険はありません」と、「日本は敵艦隊を殲滅しました」はそっくり同じ構造の中でつくられたではないか。いま私たちは、インタネットで情報を手に入れることができる。だから知ろうと思ったら知ることはできる。しかし人は騙される。甘い言葉に騙される。ほんとうのことを、知りたい。最悪の事故が起きた。これ以上は騙されたくない。たくさんの子どもたちが危険に晒されている。

10月29日――クムジュハルモニに会いに釜山へ行く
『花と話すハルモニ』(仮タイトル 著者イ・キュヘ)は、日本軍の慰安婦にされたファン・クムジュさんの半生を追っている。来年早々の発売予定だ。昨年翻訳原稿を読んで、この人に会いたい、会わなければと思っていた。ユリ子さんの状態が安定した10月末、クムジュさんの入居している介護施設を訪ねた。翻訳者の安田千世さんとの二人旅だった。すこし認知症が進んでいるクムジュさんは、私の顔を不審なやつだとばかりにしげしげ眺める。10分ほど前に、安田さんが「わたしのチング(友だち)です」と紹介したばかりなのに。
   「ハルモニ、長生きしてくださいね」千世さんが手を握りながら言う。彼女はハルモニと長いつきあいで、きちんと話をしたくて、韓国語をならった。ヨンセ大学に語学留学もして韓国語をみがいた。
   「人はいつまで生きるかはわからないよ。死ぬときは死ぬし、生きるときは生きる んだ」
   これが、クムジュさんの返事だった。様々な体験をして、たくさんの人が死んでいった。死の間際まで追い詰められた体験がクムジュさんの中にあった。日本の戦争が終わって、生き延びたと思ったら、朝鮮戦争が始まった。孤児を3人育てた。クムジュさんの本、元気なうちに届けたい。「そう、できたの」とちらっと見てくれるかもしれない。
 
2012/02/08 08:11 暮らしのなかで TB(0) CM(0)

 
 2011年3月11日――東北大震災、気仙沼のおばあちゃんたち
東京から上田への転居(住まいだけ。梨の木舎は相変わらず神保町にある)を決めたのは、震災の衝撃のせいだった。奥の在庫棚から2000冊が崩れた。棚はひしゃげた。3カ月間、片付けられなかった。東北の津波の映像は繰り返しテレビから流され、脳裏に焼き付いて離れない。このままこの生活は続けられない。何かを変えないと苦しい。
 2011年3月11日東北大震災、つづいて福島原発が崩壊した。世界は一変した。もう元の暮らしにはもどれない。広島型原発150個分の放射能が放出されたと読んだ記憶がある。日本列島は放射能汚染列島になった。現実に起きたこととは思えない。『風の谷のナウシカ』は世界が核戦争で滅びた後の世界を描いていると知人は言う。『ゴジラ』も『ウルトラマン』も巨大になった怪獣が登場する。
当時枝野官房長官は、「さしあたっての危険はありません」と言い続けた。広島原爆150個分の放射能がもれだしていても。「快適な日常」が延々と続くと思いたい人たちが政治を握っている。彼らにとって「快適」とはなんだろう。「お金」「政治権力」だろうか。しかしもう世界は快適ではない。世界は、あの日から放射能時代に入った。
2011年1月息子直人が、ゆきちゃんと暮らすために家を出て行ったあと、13万7000円の賃貸マンションに居続けようかどうしようか迷った。マンションは善福寺公園の森の続き、豊かな自然のなかにあった。
JR西荻窪駅でおり北口に出る。線路と平行にある商店街を東京女子大方向に歩く。新刊本屋に古本屋、タイラーメン屋、いっぱい飲み屋、ケーキ屋、イタリア料理店が軒を連ねる。女子大通りに出ると、骨董品の店が並ぶ、オーダー靴屋もある。染物屋、蕎麦屋を通り過ぎる。脇にはいると、桜の木の周りに寄り添って人々が暮らしているような一角があり、先の急坂を降りると善福寺公園の南の池の端に出る。ここから北に向かって水辺と森が広がる。桜に銀杏にケヤキにメタセコイアにつつじ。季節には、紫と黄色の花菖蒲が水辺を彩る。七面鳥と鶏を親に持つバリケン鳥もここを住処にする。春には、カルガモのひなが親に導かれて餌を啄んでいる。冬、おなが鴨やキンクロハジロが飛来し、春が来る前には飛び立ってゆく。カイツブリとバンが残され、やれやれと広くなった池を泳ぎ回る。
 引っ越しは7月23日に決めた。
その1週間前、気仙沼に出かけた。画家アキノイサムの友だちの門ちゃんがいる。普段は半蔵レストハウスを経営し、週末はライブハウスになる。いまはボランティアセンターになっているという。一関で新幹線を乗り換え、気仙沼で降りて、宮城交通バスに乗り、巨釜半蔵(おおがまはんぞう)入り口で降りる。東京から7時間半。1泊だから大したことはできない。しかし行くことが必要だった。気仙沼市唐桑町小谷根。海面から30メートルの断崖のうえに立つライブハウスは、津波からまぬがれた。敷地内に、過去の津波の記録碑が建ち、柳田國男の一文が刻まれている。
海沿いの漁村は被害にあった。仮設住宅のおばあさんたちは、夫をさらわれた人もいる、中学生の孫が帰ってこないという人もいる。すべての日常が流されたのは共通していた。
「たしか、靴下があったはずだなーと探そうとするんだ。それで、ああそうだ流されたんだって」
「そうだ、しょっちゅうだ」
仮設の空き地に急ごしらえで売店が開店していた。支援物資が並び、必要な人は持っていく。気持ちばかりの小銭を入れる箱がある。店番はボランティアがかわるがわる担当する。ボランティアの中には、被災した人もいる。お店の一角のベンチに座ってお茶を飲みながらおばあちゃんたちはおしゃべりする。内容はよくわからない。これが生ではじめてきいた気仙語。耳に心地いい。一人一人の話を聞きたかった。母と同じ年ぐらいのおばあちゃんたちは、お店が開くと集まってきて、おしゃべりにひと時を過ごす。
先日門ちゃんに電話した。あの売店は閉鎖したという。おばあちゃんたちはどこに集まってお茶を飲んでいるんだろう。
唐桑から帰る日、ボランティアセンターの英子さんが駅まで送ってくれるという。センターの庭で待つ間に救急車がサイレンをならしてくる。
「何があったの?」
「漂流遺体らしいものが流れ着いたらしい。ここに来るべくして来たんだな」近くで作業していた人がつぶやいた。いまでも時々帰ってくる人があるという。沖まで流されて、4カ月の漂流ののちに戻ってきた。ここが自分の町だったのかわからない、でも海岸はつながっているのだから。

7月23日――ユリ子さんの体験
友だちに紹介されたご近所の長田運送は、いまどき珍しいほろ付きの2トン車を使っている。左右の幅より屋根までの高さがある。ぎっしり詰め込んだ荷物の重みで、タイヤがおしつぶされている。碓氷峠はきつい、70キロで走るという。70代のおやじさんと50代後半の社員のコンビは、それでも、3時間半で上田の転居先、母の家に到着した。 
 荷物を運びこんで一息ついて、母のいる「大畑サテライト」に電話しようとケータイをみたところ何通もの着信歴がある。
 「ユリ子さん、からだがゆるんでるんです。救急車を呼んでもいいでしょうか」
「はい、お願いします。すぐに行きます」
 ユリ子さんは、救急隊員が2つめにあたった丸子中央病院が受け入れた。脳のCTスキャンと胸のレントゲンを撮った。突発的一時的脳梗塞という(ような)診断だった。救急車のなかで手当てを受けている間に血栓はとれたらしい。
 「今日帰ってもいいですが、1日泊まりますか」救急医は言った。
 翌日病院の内科部長が診察した。「検査しますので、1週間入院してください」
 「(ええ?)昨日は、今日退院してもいいと言われました」「MRIとか、いろいろ検査するので1週間はかかります。いいですね」
 丸々太った部長の顔には、反論するなんてとんでもないやつだ、という不快感がありありと見て取れた。「…は…い…」不審を残したままの返事を確認して、部屋を出て行った。 
 同席した看護師長の北村里子さんの、「残された時間を大切にしてください」で、我に返った。「そうだ、ユリ子さんには時間がない」
 聞けばMRIはガンガン音がする真っ暗闇のドームのなかでの検査らしい。そんなところに20分もいたら、助かる命も助からない。診断はついている。検査は望まない…。
1週間もここにいたら、ユリ子さんは死んでしまう。ナースステーションに走った。さっき同席していた北村里子さんがいた。
「お話があるんですが」
北村看護師長は、休憩室に座って話を聞いてくれた。
「ユリ子さんは、大畑サテライトに4年いました。もうあまり時間がないかもしれない。だとしたら、最後を迎えるとしたら、4年間寝起きしたユリ子さんの部屋で迎えたいんです。サテライトの方たちとも最後は母の部屋で、前からそういう話しをしています」
「わかりました。ご家族の意思は、医者とけんかしてでも押し通していいんですよ。医者の言うとおりにしなければいけないという、いまはそういう時代ではありません。わたしから主治医にはなします」
翌日の退院が決まった。サテライトから迎えに来てくれるという手配もとられた。
7月25日月曜日、サテライトの職員さんに付き添われストレッチャーでユリ子さんは自分の部屋に戻った。
すぐにかかりつけの真田クリニックの沢井院長が往診してくれた。
「ユリ子さん、こんにちは。大丈夫、大丈夫、元気ですね」
母の顔をみて大きな声で話す。よかった。
「1週間は大丈夫です」(1週間だけ?)
「元気なうちに会いたい人に会わせてあげてね、いい顔見せてください。
 ユリ子さんはいま、あっちの世界とこっちの世界を行ったり来たりしてます。
 この話も全部きいてますよ。みんなで、ベッドのまわりで、昔のこと話したり賑やかにしてあげてください」
 沢井先生の声を聴きながら、わたしの心が、ドラマチックに変化した。
 ―そうだ、人は死ぬんだ、と素直に思った。死ぬことを受け入れないと、ユリ子さんは安らかに向こうの世界にいけない。わたしも苦しい。直人もゆきちゃんも苦しい。気仙沼の非業の死を迎えた人たちのことをおもった。東北震災犠牲者の遺族はどんなにつらいことだろうと思った。
翌日、兄の丈夫さんとお葬式の話をベッドサイドでした。実はこの人と話すのは苦しい。しかし家族葬にしたいといったら、丈夫さんは、「自分たちの葬式もそうしたいと思っている」という。家族で、気持ちよく送りたい。孫やひ孫に囲まれて旅立ってほしい。
ユリ子さんは、その後安心したのか、奇跡的に回復した。
昨日(倒れて3カ月後)は、本当のユリ子さんの家に戻った。東京から帰ってきた直人と臨月のゆきちゃんと並んで、にこにこと庭を眺める。お仏壇の長女美奈子の写真に涙をうかべた。孫のみいちゃんとひ孫のりっくんも到着して、乾杯。

10月1日――『天の火』、原発を止めるためにあらゆる力を
『天の火』(梨の木舎刊 46判上製 定価1400円+税)は、会議通訳(同時通訳)者の高倉やえさんのはじめての小説である。湾岸戦争のNHKの同時通訳は彼女が担当したという。さまざまな情報に接する立場にいて、原発の企業提携交渉のかずかずにも立ちあっている。異文化同士がふれあう場で仕事をしながらナショナルなものを背負いつつ、しかしつまるところ人間の関係は一人一人の人間の営みが作り上げるのよと言っているのだ。
タイトルは、『神の火』としていたが、うかつにも高村薫に同名の小説があることを知らなかった。同じように原発を扱っている。カバー校正の時点で火木に出勤してくれる松代さんが指摘してくれた。タイトルは『天の火』にした。
原発この手に負えない存在。人間の小さな知恵や日々の工夫などというものは踏み潰して進む。すべてが大量に動く。エネルギー、お金。
原発事故が起きた時、戦争はこうやって推進されたのだと胸におちた。
「さしあたっての危険はありません」と、「日本は敵艦隊を殲滅しました」はそっくり同じ構造の中でつくられたではないか。いま私たちは、インタネットで情報を手に入れることができる。だから知ろうと思ったら知ることはできる。しかし人は騙される。甘い言葉に騙される。ほんとうのことを、知りたい。最悪の事故が起きた。これ以上は騙されたくない。たくさんの子どもたちが危険に晒されている。

10月29日――クムジュハルモニに会いに釜山へ行く
『花と話すハルモニ』(仮タイトル 著者イ・キュヘ)は、日本軍の慰安婦にされたファン・クムジュさんの半生を追っている。来年早々の発売予定だ。昨年翻訳原稿を読んで、この人に会いたい、会わなければと思っていた。ユリ子さんの状態が安定した10月末、クムジュさんの入居している介護施設を訪ねた。翻訳者の安田千世さんとの二人旅だった。すこし認知症が進んでいるクムジュさんは、私の顔を不審なやつだとばかりにしげしげ眺める。10分ほど前に、安田さんが「わたしのチング(友だち)です」と紹介したばかりなのに。
   「ハルモニ、長生きしてくださいね」千世さんが手を握りながら言う。彼女はハルモニと長いつきあいで、きちんと話をしたくて、韓国語をならった。ヨンセ大学に語学留学もして韓国語をみがいた。
   「人はいつまで生きるかはわからないよ。死ぬときは死ぬし、生きるときは生きる んだ」
   これが、クムジュさんの返事だった。様々な体験をして、たくさんの人が死んでいった。死の間際まで追い詰められた体験がクムジュさんの中にあった。日本の戦争が終わって、生き延びたと思ったら、朝鮮戦争が始まった。孤児を3人育てた。クムジュさんの本、元気なうちに届けたい。「そう、できたの」とちらっと見てくれるかもしれない。
 
2012/02/08 08:00 暮らしのなかで TB(0) CM(0)
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