出版活動を続けながら、地域の人々や世界の人々と情報と知恵を交換していきたと思っています。梨の木舎らしい日々の思うこと、考えることを発信します。
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ミナガちゃん

Author:ミナガちゃん
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 8月19日、新宿に集合、10時40分発 ロマンスカーに乗る。入会村に着いたのは、午後4時ごろ。梨の木舎の著者で友人のきどのりこさんの河津の家がここにある。友人たちの集まり、ナヌンカンダの夏合宿である。
(ナヌンカンダ は、韓国語。「わたしは行く」という意味。女友だちのシャベリバ、である。今回は出席8名)

 河津・入会村と名づけられた山の上の家にお住まいの菊地文代さんは、明日の朝早く、小繋に発つということ。文代さんにあうのをわたしたちは、とても楽しみにしている。飾らない美しいかたである。「ターシャ・チューダーみたいな人よね」とよしざわさん。「西の魔女が死んだの、おばあちゃんにも似てますね」ときどさん。みんなが好きで、わたしたちの憧れの人なのです。

 菊地文代さんのお連れ合いは、菊地周さん。2002年に亡くなられたということでわたしたちはお会いしていない。ドキュメント映画監督亀井文夫のカメラを回していた人だという。
 亀井文夫さんには、晩年1985年ごろにお会いした。渋谷の事務所をたずねて、内海愛子さんとお話をうかがった。顔はつややかで、若々しい。戦争中の映画づくりのこと、戦争中結核にかかったがサナトリウムを母の適切な判断で助かったという話、戦争が終わったとき、手にしていたご飯茶碗を放り上げて喜んだこと、休みなく語られた。文化学院を中退してレニングラード演劇映画技術院に聴講生として学んだ。
 
 6時間以上ぶっ続けで話され、内海さんもわたしもすっかり疲れ果ててしまった。近くの店にはいって、コーヒーを飲んだ。ビールだったかもしれない。しかし亀井さん自身は疲れなど微塵もみせない。実にエネルギーに溢れていて、人を巻き込んでいく。とぼけた感じがあって、まったく自然体に「ぼく」の歩いてきた道を語った。
 このインタビューは、『ぼくらはアジアで戦争をした』(教科書に書かれなかった戦争PART3)に収録されている。1986年の発行。24年たっていま読み直してみると、おもしろい。わずかだけど在庫もある。定価1650円+税。

 菊地周さんと文代さんも――多分――、亀井文夫と一緒に仕事をしていた。
 周さんは、亡くなられたあと、厖大なフィルムを残した。それを映画『こつなぎ 小繋 ――山を巡る百年物語』として、文代さんたちはまとめた。わたしは、この映画を3回観た。入会権をめぐって小繋の村人がおこした裁判は村人を分断する。里山(自然)は誰のものか、という問いかけであり、村の暮らしが近代化によってどのように破壊しどのように人々が抵抗したか、ということを投げかけてもいた。
 人が自然とどう向き合って生きていくのか、という現代的な問題も投げかけている。映画のはじめのシーンに、ぐいと心をつかまれた。

 よしのさんは、雪の山で木を切る。(よしのさんは小繋村の住民で、夫とともに、この映画の主要登場人物である。)リヤカーを引いて、里山に入る。10数メートルもあろうかという木を選ぶ、根元に鋸をいれる。ざっざっざっ、人気のない山に鋸の音だけが響く。梢を凍るような風がわたる。鋸はよどみなく動き、やがて、ギッギッギッ、ずんずんずーん、ずっずーん。雪の降り積もった下草のなかに倒れこむ。これで終わりではない、これからもまだ大仕事が続く。

 倒れた木をほどよい長さの丸太に切りそろえる。切りそろえられた丸太は、山の斜面からすべり落とされ、雪の上をソリのように滑っていく。最後は自分が滑り落ちる。
 それを、リヤカーに載せて自宅まで運ぶ。こともなげに、淡々と、よしのさんの仕事は続く。

 わたしは、木を切ったことがある。正確には、鋸を使って切り倒そうとしたことがある。    わたしより、5、6歳若い、樹齢50年くらいの落葉松を1本切ろうとした。
 幹の5分の1、ひょっとして7分の1ぐらいまで鋸の歯が入ったところで、わたしは力尽きてしまった。そのあとは、チェーンソーの力を借りて切り倒してもらった。生木は重く、木を切り倒すという労働は途方もない。

長野県佐久市望月、生家のある里山のなかにわたしの山がある。山というほどのこともない。100本ほどの落葉松が植わっている。わたしのお祖父ちゃん、丈一と父の通夫が一緒に植えた。

 もともとは桑畑だった。「山っ桑の畑」に行くよ、と母たちがよく言っていた。
 北佐久郡大字布施村字式部、日本の近代化を繭をつくって支えた。お蚕(かいこ)さんの季節になると、座敷は、全部畳が上げられ、蚕さんのために明け渡された。朝と晩、お蚕さんの餌の桑摘みは女たちの仕事だった。桑畑は何箇所かに分散していた。山っ桑の畑は、歩くと30分かかった。

 細心の注意をはらって、お蚕さんを育てる。桑の葉は、お蚕さんがちいさいときは、たしか包丁で刻んであげる。大きくなると、一枚の葉っぱのまま、もっと大きくなると、枝のまま、お蚕さんにあげる。ぬれた葉は、病気になる。夕立が来る前に葉っぱをこいで(こぐという)雨にぬらさないようにして大急ぎで帰る。
 お蚕さんの体が透き通って繭をつくる準備ができると、ひとつひとつ手で拾って、蚕巣(こす)にうつす。ここでお蚕さんは静かに繭作りをはじめる。
 繭を買う仲買の人たちが来た夜を覚えている。 

 裸電球が庭をあかあかと照らしている。繭は白い布の袋に詰められて、大きな天秤ばかりで目方を測られる。庭は活気に満ちていた。おばあさんは、縞のもんぺをはいて、手ぬぐいで姉さんかぶりをして、忙しげに動き回っている。お祖父さんと父が、仲買人の手助けをする。

 1947年生まれのわたしが、4、5、6歳の記憶。というのは1951年、52年、53年ごろのこと。朝鮮戦争がはじまって、繊維工業は活況を呈した。絹織物の輸出も伸びた。
 戦争前は、小諸まで、繭をもって行ったらしい。小諸駅から、小海線を使って、岡谷方面に運ばれた。あるいは、富岡製糸工場に、あるいは上田に運ばれたかもしれない。そこで、糸採り工女たちの手によって、繭は一本の絹糸から、絹織物になった。日本の近代化を末端で支えた。お祖母さんも。一家の貴重な現金収入であった。
 戦争特需が終わり、お蚕さんも終焉を迎え、山っ桑の畑は、落葉松に植えかえられた。

 よしのさんは、雪の降り積もる里山で木を切る。一人で。いまは、おいくつになられるのだろう。お元気で1人暮らしをされているという。文代さんは、そのよしのさんがいる小繋に明日出かける。
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2010/08/24 15:48 暮らしのなかで TB(0) CM(0)
2010/08/24 15:29 平和を考える TB(0) CM(0)

 暑中お見舞い申し上げます。
 ブログ、第1信をお送りします。

 今日、梨の木舎のドアをあけると、おおきなテーブルをふさぐかのような
 大きな荷物が届いていました。
 NGO水牛家族が扱っている手作りの籠。フィリピンレイテ島の女性たちが、
 作っているとても素敵な籠です。ーーしかし、3つと注文したのが、どうやら
 6つきている。!!
 このさい、友人たちに、プレゼントしようか。
 フィリピンからのさわやかな風が、吹いてきたようなすてきなバッグです。

 水牛家族は、そのほかたくさんのエコグッズを扱っている。
 ホーム頁をみてくださいね。

レイテ島のバリューバック






2010/08/02 13:49 平和を考える TB(0) CM(0)
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